礼文島旅館かもめ荘の大罪7【特別養護老人ホームの姉との面会2】
札幌アパートでの一人暮らし【2026年】
7.前回に続いて特別養護老人ホームの姉を訪れたことについて書きたいと思います。👌👏✍️
その前に一番上の姉との思い出について書きたいと思います。😁👍🧏
小さい頃からの癖で他の兄弟もそうですが 一番上の姉のことだけ【ねんね】と言います。😃😁😀
私は他の2人の姉は名前を呼び捨てですが小さい頃からの癖で今でも思わず【ねんね】と言ってしまいます。😄👌🤷
私とは9歳離れていて物心ついた頃には中学を卒業し家にはもういませんでした。👋
私が大きくなってから母から聞かされた話ですが自分が生まれてすぐの島の大火と父の勤めていた回漕店の倒産などで家計は苦しい状況でした。😆🔥💴🙂↕️
大火の時は3人の姉の手を握って私をおぶって命からから逃げたと母は言っていました。😅🔥🚶
大火の前は島の人しか知らないと思いますが信用金庫(今は移動して信用金庫の寮が建っています)が建っている場所に家はありました。😊🏦👌😀
今現在建っている場所に家を建て直しどうゆう経緯でかよく分かりませんが人を雇って床屋を始めたのです。💈⁉️
そして父自身は役場に勤める事が出来るようになりました。😄🏢👌😀
その為中学校を卒業すると嫌がる姉を今で言うところの床屋の専門学校的なところに行かせたのです。😆❌💈🙂↕️
4年ほどで専門学校を卒業し店での実習を終えて姉は島に帰ってきました。😁🏝️🛳️
家は人を雇って床屋を続けていてその人と姉を結婚させたいと両親は思っていたようですが姉が嫌がった為諦めた様です。💒❌🥹
小さな島の床屋に2人も必要ないのでしばらくすると雇っていた人は島を出て行ってしまいました。😝🏝️🛳️🤷
私が小学校4年生の頃に姉は戻ってきて当然頭の散髪は姉がしてくれました。😄💇♂️
思い出に残っているのは チェスです。♟️
誰も将棋など出来ませんが新品の高価そうなチェスのセットがあったのです。♟️⁉️
記憶は定かではありませんが多分私と親子ほど離れた父方の東京の従兄弟が送ってくれたものだと思います。😊👌👍🧏
父の一番上の姉の息子で東京に住んでいて小さい頃は島にいて父と年齢が近く兄弟のように育ったようです。😊👌😀
父の一番上の姉は長女なので婿を取り家の苗字と同じです。😃👍🆗
その人は島ではと言うかその当時では高価なレーシングカーのセットも送ってくれました。😁👍🏎️🧏
組み立てると1m 以上になリ8の字型のレールの上を2台の車が走るという本格的なものでした。😊👍🏎️😀
前にも書いたように遺伝による肉体的なハンデもあって内気な性格で家でプラモデルとか作るのが好きで夢中になっていました。😊👏🆗
少し話が横道にそれましたが姉はお客が居ない時は茶の間に来て私を呼んでチェスをしようと言ってきました。😊♟️👌
それはほとんど毎日のようにしていた記憶があります。👌👍♟️
姉にとってはお客を待つ間の時間つぶしだったのだと思います。😁⏰‼️
なのでどちらも見よう見まねで勝負も何もないような記憶しかありません。❌👌
その姉も私が中学2年の時に結婚をしました。😁👌💒😀
相手は修行先の床屋さんが紹介してくれた人です。😁👌🥹
両親は反対しました。😆❌💒🙂↕️
なぜかと言うと相手の人は6人兄弟ですが他は全て女性で長男になります。😆🖕🥹
なので親との同居になり姉の性格からしてうまくやっていけないと心配したのです。😆❌😟
前にも書いたように姉3人の性格は全く違い一番上の姉はどちらかというと口下手で俗にいう【おべんちゃら】とか全く話せない人です。😌🗣️❌
話し方もぶっきらぼうで母曰く怒ったように話すと言っていましたがよく言うと裏表もなく正直な人だと思います。😃👌‼️
でも両親の反対を押し切って相手との人が好きで姉は結婚しました。😄💒😀
当然結婚式はニセコ でしました。👌🤷
なぜか私だけ結婚式に出席することができませんでした。😂❌💒
父が学業を優先させたのだと思います。😝🧑🎓👍🤷
家に1人残る私のために母方のおばあちゃんが来てくれました。😄👵👏🆗
島の姉は稚内高校生でしたが出席しているのになぜ私だけ出席しなかったのかその時は何とも思っていませんでしたが不思議でなりません。😌❌💒⁉️
他の家もそうですがその当時は島に高校はなく中学を卒業すると家を出て行くことになります。😆🏝️🛳️🥹
その当時は人口も多く中学校は2つあり1中学1学年100人以上おり2つの中学校を合わせて200人以上いました。🚸🏫👌
なぜか当時は高校はなく今現在は2つの中学校を合わせても20人に満たないぐらいです。😆❌🏫⁉️
なのに稚内高校の分校ができて他と同様に島外の学生を募って生徒を維持している状況です。😝👌⁉️
又話はそれましたが私が中学校を卒業して島外に出ると子供は誰もいなくなり母と父の二人暮らしになりました。😌❌😟
私が高校2年生の夏休みに帰省すると一番上の姉がいました。😃👍🏝️🛳️
生まれたばかりの1歳にも満たないよちよち歩きの娘を連れてきていました。🚼👏
私は孫を見せに里帰りして入れるのかと思っていましたが両親との話を聞いていると離婚をすると言って家を出てきたようです。💒❌🛳️⁉️
案の定親の心配通りあちらの母親とうまくやっていくことが出来なかったのです。😝❌😟‼️
母が宥め賺して一緒に向こうの親に謝りに行って戻っていきました。😌🛳️🆗
戻ったのは私の夏休みの間か休みが終わってからか記憶が定かではありません。⁉️
次に姉にあったのは私が高校卒業しニセコの家に遊びに行った時です。😊👏🤷
お世辞にもきれいとは言えない古ぼけた家だったような印象があります。👎🙂↕️
おじいちゃんは亡くなりおばあちゃんが離れの様なところに別に暮らしていました。😉👴😇⁉️
姉は2人目の子供が生まれて家の主のようになっていました。😁👌👏🆗
姉はどちらかというと大雑把な性格で母に言わせると【ガラッパチ】的なところがあります。😃👌👏😀
母にとっては性格的に気を使わなくても良くて一番話しやすい相手だったと思います。😌👏🧓😀
その時に前にも書いた様にフォークソングで長髪が流行っていたので長い髪の私にパーマをかけてくれました。😁👌🧏
それが気に入って30代後半までパーマをかけていました。😁🙆🧏
次に会ったのは大学生の時の夏休みで2番目の姉のアパートでだったと思います。😄🙆🏠‼️
2番目の姉は私の高校時代は小樽で働いていて一緒に暮らしていて私の面倒を見てくれていました。😄🙆👌😀
その後小樽の会社を辞めて札幌で働いてアパートを借りていたのです。😌🏠🆗
その時4人全員の兄弟が集まった記憶があります。😃😁🙆😀
後にも先にも島外で兄弟4人が集まったのはこの時の1回だけだと思います。😁🆗
私は夏休みでアルバイトで姉のアパートのところにいたのですが一番上の姉は近いのでたまに遊びに来ていたのですが島の姉がなぜいたかは思い出せません。😃👏⁉️
次に会ったの2番目の姉の結婚式だったと思います。😄🙆💒‼️
2番目の姉も島に帰りすでに母は民宿をしていたのですが姉は稚内が本社の建設会社の礼文支店の事務で働いていました。🏝️
民宿で毎年のように来る工事会社の人を母が気に入り姉に勧め結婚させたのです。😃🧓👍💒
その当時では遅い結婚で姉は34歳で旦那は40歳でした。😊😁💒‼️
私は東京で働いていて29歳で最初の会社をまだやめていませんでした。😄❌🆗
その時の一番上の姉のことはあまりよく思い出せません。😊👏⁉️
覚えているのは2人の姉の旦那と私と従兄弟で飲みに行ったことです。😆🍺🥃🧏
一番上の姉の旦那は大酒飲みなのは知っていたのですが2番目の姉の旦那も負けないぐらいの酒の強い人でした。😊🍺🆗
その印象が強くその時の姉のことがよく覚えておらずその後東京にいた私は会うことはなく電話で話しすることさえありませんでした。😉☎️❌😟
その後母から電話があり子供ができたというので2番目の姉に子供ができたのかと思ったのですがそれは一番上の姉の話でした。😄👏🚼‼️
40歳過ぎての子供で一番上の子供とは20歳近く年が離れています。😄👏‼️
母も驚いていましたが私もびっくりしてしまいました。🧓🤷‼️
そして次にあったのが父の葬式の時です。😆👎👴😇
私が46歳の時ですから会うのは17年ぶり ということになります。😆😂‼️
家に帰るのさえ10年ぶりぐらいです。😆🛳️🏝️‼️
その時期の私はどん底の時でした。🙂↕️
【東京での暮らし】で書いたように施工管理の契約の仕事がなくなり氷河期時代で家に帰りたいと言いましたが帰ることができず致し方なく以前にお世話になった社長の設備工事会社で働いていた時期です。😂❌🤦
自業自得とはいえ肉体的にも精神的にも参っており様相も変わり果てていたようでさほど変わってはいない姉を私はすぐに分かりましたが向こうは分からず気づくと「マサノブか」と言って驚いていました。😆😂👎‼️
その時は3人の孫を全員連れてきていました。😁👏👌😀
後にも先にも子供達に会ったのはこの時 1回だけです。😊🙆🖕‼️
今思うとその時期が姉にとっては 一番幸せな時だったと思います。😄👏🆗
家を建て直し夫婦で床屋をしていましたが床屋の数とお客の人数で2人も必要なく姉は新聞店を営みホテルの掃除でも働いていました。😁👏🙆😀
家のローンが有り 一番下の子は中学生に上がったばかりだったと思います。😆😟
真ん中の男の子が問題で仕事を変えて親を心配させていました。😉😆👎😟
島に帰ってからは何度か電話で話しすることはありました。☎️🗣️🆗
母は唯一の孫3人もおり話しやすさもあってよく姉の家の方に電話をしていました。😁🙆🧓☎️
一番下の孫には少ない年金から毎年お年玉をあげていました。😊👏🧧🆗
また真ん中の男の子は近畿の方に仕事に行って音信不通になっていて母は心配していました。😆😉🧓😟
その後パーキンソン病を発病し家のローンを払えなくなり家を売り夫婦と一番上の娘と3人で団地で暮らしていましたが去年の2月頃に特別養護老人ホーム 入ったということです。😆😉👎🙂↕️
ちなみに旦那は3年ほど前に亡くなっています。😢😂😇
かいつまんで姉との思い出を書いてみました。😊👏🤷🆗
2回目の訪問で前回はあまりにも姉の変わり果てた姿に驚き寂しさと悲しみを覚えましたが今回は覚悟ができているので大丈夫だと思っています。😣😢🖕🤦
2時からの面会でしたがバスの遅れがあってホームに着いたのは2時10分頃でした。😆🚌❌
ホームに着くと姉はすぐに連れてこられました。😄👏🧏🆗
車椅子で前も痩せこけていましたがなお一層痩せたように思います。😣😢👎🤦
私は「誰だかわかるかい」と聞いてみました。😅🗣️🤦⁉️
すると姉は「マサノブだ」と言って前回と同じようにしみじみと私の顔を見ています。😢😣🤷🧐
前回姉は私の顔を見て涙ぐんでいましたが今回は涙ぐむように鼻水を流して私に「ちり紙持ってない」と聞いてきました。😂😆🤷⁉️
私は持っていたちり紙を渡すと鼻を噛んでいます。😆😄🙆😟
私がホームの人がくれた面会表の記入の為に黙っていると「何か話して」と言うのでこれを書いてからねと言いました。📝✍️
姉との思い出の話が長くなったので今回はここまでにします。😉✍️🔚
8.に続く👏🙆🧏😀

これは特別養護老人ホームの全体像の写真です。😁📸🆗
前回載せた写真は入り口の玄関の写真です。😄👏📸
札幌より多少肌寒く感じ道路脇に少し雪も残っています。😉❄️👍❗


これは特別養護老人ホーム前のバス停から撮った両サイドの写真です。😁👏📸
上の写真は前回の写真に似ていますが違う角度から撮った写真です。😁📸🆗
帰りのバスの時間がかなりあったので暇つぶしにあちこちの写真を撮ったのですが写真を整理する段階でかなり削除してしまったみたいです。📸❌⁉️
似たような写真ですがもう一度載せてみました。😅👍📸
ではまた次回にて👋👌👏😀🆗